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働く人の心の専門家「森田彬裕」ストーリー

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ビジネスで大切なことは人気戦国武将真田幸村から学べ!

ビジネスで大切なことは人気戦国武将真田幸村から学べ!

戦国時代で最も人気のある武将の一人と言えば、真田幸村が挙げられます。

それを証明するように、小説・ドラマ、マンガにもたくさん扱われていること、あなたもご存知ですよね!

私は、真田幸村が人気者である理由と、ビジネスで大切なことと共通点があると考えています!

グローバルな時代への変化、終身雇用制度の崩壊など、今まで当たり前だったことが当たり前でなくなってきた現在にこそ、真田幸村から学べることがあると思い、この記事を書いてみることにしました。
真田幸村は、なぜ人気があるかと言えば、彼の私利私欲ではなく、恩や義を大切にするという生き様にあるのではないでしょうか。

人気戦国武将真田幸村はこんな方

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真田信繁
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。真田昌幸の次男。通称は左衛門佐で、輩行名は源二郎(源次郎)。真田幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。

江戸時代初期の大坂の陣で豊臣方の武将として活躍した。特に大坂夏の陣において3,500の兵を率いて徳川家康の本陣まで攻め込んだ勇敢な武者振りの話が、江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、後世、そこから軍記物、講談、草双紙(絵本)などが創作された。

さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、真田十勇士を従えて宿敵家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。

「真田幸村」の名が広く知られているが、諱は「信繁」が正しい。

直筆の書状を始め、生前の確かな史料で「幸村」の名が使われているものは無く、幸村と署名された古文書が二通現存しているものの、いずれも明らかな偽文書で、信繁が幸村と自称したことの証明にはならず、真田左衛門佐の諱は信繁であったと判断できるからである。

「幸村」の名が見られるようになったのは夏の陣が終わってから60年近く経った、寛文12年(1672年)に刊行された軍記物の『難波戦記』がその初出であるとされる。

『難波戦記』では昌幸の次男「左衛門佐幸村」や「眞田左衛門尉海野幸村」との名乗りで登場するが、前述のようにこの名乗りを実際に使用した形跡はなく、大坂入り後の書状でも「信繁」を用いている。

しかし「幸村」という名前に説得力があった。
「幸」は真田家や(真田家の本家にあたる)海野家の通字であり、「村」についても徳川家に仇なす妖刀村正が由来に利用された。俗伝で幸村の佩刀であったとか介錯に村正を用いられたという話があり、すべて誤伝であるのだが、話に尾ひれがついたことで「幸村」の名は元禄時代には広く知られていた。

このため国学者でもある徳川光圀がわざわざ「幸村というのはあやまり也」と書き記したほどである。

時代が下るにつれて「幸村」の名があまりに定着したため、江戸幕府編纂の系図資料集である『寛政重修諸家譜』や兄・信之の子孫が代々藩主を務めた松代藩の正式な系図までもが「幸村」を採用した。

大坂夏の陣から200年近く後、文化6年(1809年)、徳川幕府の大目付から「幸村」名についての問い合わせを受けた松代・真田家は、「当家では、『信繁』と把握している。『幸村』名は、彼が大坂入城後に名乗ったもの」との主旨で回答している。

篠原幸久は論文で、武田信玄の同母弟に典厩信繁がおり、難波戦記の作者らには真田信繁の活躍を描く効果上、その旧主家一門の著名な同名者の呼称を避ける意図があり、信繁の名乗りが初めて否定されて幸村が案出されたのであろうと主張する。

生涯[編集]
出生から真田氏の自立
永禄10年(1567年)または元亀元年(1570年)、真田昌幸(当時は武藤喜兵衛を名乗る)の次男として生まれた。母は正室の山手殿。
通称は、長男の信幸が源三郎を称し、信繁は源二郎を称した。

真田氏は信濃国小県郡の国衆で、信繁の祖父にあたる幸綱(幸隆)の頃に甲斐国の武田晴信(信玄)に帰属し、伯父の信綱は先方衆として信濃侵攻や越後国の上杉氏との抗争、西上野侵攻などにおいて活躍している。

父の昌幸は幸綱の三男で、武田家の足軽大将として活躍し武田庶流の武藤氏の養子となっていたが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて長兄・信綱、次兄・昌輝が戦死したため、真田氏を継いだ。

幸綱は上野国岩櫃城代として越後上杉領を監視する立場にあったが、昌幸も城代を引き継いだ。信繁は父に付き従い甲府(甲府市)を離れ岩櫃に移ったと考えられている。

天正7年(1579年)には武田・上杉間で甲越同盟が締結され上杉方との抗争は収束するが、一方で相模国の後北条氏との甲相同盟が破綻したため、上野国は引き続き緊張状態にあった。

天正10年(1582年)3月には織田・徳川連合軍の侵攻により武田氏は滅亡し、真田氏は織田信長に恭順して上野国吾妻郡・利根郡、信濃国小県郡の所領を安堵され、信繁は関東管領として厩橋城に入城した滝川一益のもとに人質として。

同年6月に本能寺の変により信長が横死すると武田遺領は空白域化し、越後国の上杉氏、相模の後北条氏、三河国の徳川家康の三者で武田遺領を巡る争いが発生する(天正壬午の乱)。

滝川一益は本能寺の変によって関東を離れる際に信繁も同行させ、木曾福島城で信繁を木曾義昌に引渡した。

真田氏は上杉氏に帰属して自立し、天正13年(1585年)には第一次上田合戦において徳川氏と戦っている。この際に信繁は上杉氏のもとに人質として置かれ、信繁には徳川方に帰属した信濃国衆である屋代氏の旧領が与えられたという。

慶長5年以前の信繁領は上田市西塩田の前山村で、上田領全体で千貫以上を所持していた。
出典:ウイキペディア

真田幸村が最後まで貫いた生き様とは

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恩義を忘れ、私欲を貪り、人と呼べるか

関ヶ原の合戦の前に、東軍(徳川軍)から莫大な報酬で誘いを受けた時、真田幸村が言ったと言われています。
幸村は豊臣秀吉に大変可愛がられていて、「豊臣には返すべき恩がある」と考え東軍(徳川)からの誘いを断って西軍(石田側)についています。

信州で十万石下さるべく候旨

大坂の冬の陣の講話後に、徳川軍から寝返る様に示されたこの条件に対して、真田幸村が言ったと言われています。
さらに、信濃一国を与えるという条件を出してきた時には、「信濃一国どころか、日本国中の半分をいただけるとしても、わたしの気持ちはかわりませんと自身の信念を貫いたんです!

真田幸村は、大坂の陣でも膨大な報酬で誘われた徳川軍ではなく、豊臣への恩義を重んじて圧倒的に不利な豊臣軍についています。

恩義を尽くして殿(しんがり)を務める

大坂夏の陣の際に行われた戦いの一つ『誉田の戦い』では、豊臣軍は撤退を余儀なくされます。

そこで、真田幸村は、殿を務め、伊達政宗をはじめとした大軍に立ちふさがり、見事に味方の撤退を成し遂げました。

殿(しんがり)とは撤退する場合に、敵方から味方を守りながら、盾となり、一人でも多く味方を撤退させる役割で、大変に重要で危険な役割なのです。

「自分が昔受けた恩よりも金・身分など、欲に溺れる者は果たして人と呼べるだろうか」
という真田幸村の生き様が現れているできごとを紹介しましたが、ここにビジネスでの大切にすべきヒントが隠されていると私は考えます。

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現代のビジネスにも当てはめて考えてみる、ビジネスで成功を収める時に大切なこと

目先の利益ばかりを追いかけているとお客様は逃げていく

目の前にある自分の利益ばかり考えていれは、その時は利益が上がるのでしょうが、それは長続きしないものです。

お客様を大切にする

あなたは、目先のお金、私利私欲のために活動をしている企業の商品やサービスを購入したいですか?
答えはもちろんNoですよね。

現代は、お客様が企業を選ぶ時代なのです。目先の報酬や私利私欲を追っていては、人を惹きつける魅力がなくなります。
ビジネスで成功を収めるには、お客様から慕われなければならないのです。

従業員を大切にする

人とは、お客様ばかりではありません。
最近ブラック企業と言われる、従業員を大切にしない企業の商品やサービスを購入したいと思いませんよね。

協力会社・取引会社を大切にする

また、自社の利益や都合ばかりを考えていて、協力会社や、取引会社を大切にしない会社も然りです。

損得だけで考えている企業とはおつきあいしたいと思われなくなれます。

真田太平記

このように、ビジネスにおいて大切なことが人気戦国武将真田幸村から学べるのです!
自身の行いや心の在り方が、学べるポイントと言えると私は考えます。

魅力のない企業に人は集まりません、人を大切にしない企業はだんだん社会から必要とされなくなるのではないでしょうか?

これは、企業やビジネスばかりでなく、自分自身の在り方、言動・行動にもしっかりと忘れないで取り入れて生きたいと思う、真田幸村という人気戦国武将の生き様です。

真田幸村についてもった知りたいという方はこちらの本を紹介しておきます。

真田四代と信繁 (平凡社新書)

丸島和洋 (著)

従属、調略、寝返り――すべては生き残るために。
2016年大河ドラマ『真田丸』の時代考証者がすべて描ききる!
波乱に満ちた真田氏100年のあゆみ。

信濃国小県郡真田郷を本拠とする真田氏は、武田、上杉、北条、織田、徳川など並みいる大大名らに囲まれつつも、
幾多の難局を乗り切り、ついには近世大名として家を守りとおした。
したたかに、実直に生きのびた武家100年の歩みは、お家生き残りの物語であった。
「表裏比興者」昌幸、「日本一の兵」信繁(幸村)をはじめ、16~17世紀、戦国期に活躍した真田氏歴代の歩み。

真田幸村ばかりでなく、真田をことを知りたければこれがオススメです。

真田信繁 – 戦国乱世の終焉 (中公文庫)

相川 司 (著)

〈真田丸〉を埋めるは赤備えの精鋭! 東国と西国に跨る所領を得た祖父幸隆。領地 保全のため、武田、徳川、上杉と次々と主家を変えた父昌幸。三代信繁は豊臣方に与 し、冬の陣で出城を造りひとたびは徳川勢を退けるも、惣堀を埋められた夏の陣で討 ち死にする――。〝幸村〟の虚像を壊し、戦国乱世を駆け抜けた信繁の実像を新視点 で熱く語る歴史評伝。

読み物して面白いのはこれですね!

真田信繁 幸村と呼ばれた男の真実 (角川選書)

平山 優 (著)

諱は「幸村」か「信繁」か。真田丸はどこにあり、どんな形態をしていたのか。実戦経験の乏しい信繁が、なぜ徳川方も称賛するほどの軍功をあげることが出来たのか――真田研究の第一人者が、文書や軍記物、絵図や布陣図ほか数少ない史料を博捜し、真田信繁をめぐる通説・俗説・新説をその根本から再検証。重視され続ける旧来の大坂の陣論や家康謀略論をも問い直し、幾多の謎に包まれた「不思議なる弓取」の実像を解き明かす。

豊臣秀頼を滅ぼした徳川家康の意外な真意とは。
信繁たち大坂方の牢人は、大坂の陣でどんな役割を果たしたのか。
彼らの活躍は両陣営の戦況と政策に如何なる影響を与えていたのか――。
勝者と敗者を分ける「その時」を捉えなおし、
真田信繁像や大坂の陣論に、新たな視座を提示する!

これは、真田幸村の知将振りがわかる本です。

こちらにも、真田を描いた本を紹介させていただいています。
http://reliancemorita.net/post-367

 

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