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ノーベル文学賞!カズオ・イシグロさん、村上春樹さんとの関係とは?

ノーベル文学賞カズオ・イシグロさんと村上春樹さんとの関係とは?

2017年ノーベル文学賞を、受賞したカズオ・イシグロさんと村上春樹さんの関係!

カズオ・イシグロさんと村上春樹さんは親友ではない

カズオ・イシグロさんと村上春樹さんが親友だという話があちこちで出ていますが、調べてみるとどうやら違うようです。

村上春樹さんとの関係やカズオ・イシグロさんがよくわかる下記のインタビュー記事を紹介しますね!

 

カズオ・イシグロが村上春樹さんとの関係を語る

 

 

2017年のノーベル文学賞がカズオ・イシグロさんに決定しました。1954年、長崎に生まれた小説家の日本への思い、そして村上春樹についてを語ったインタビューをお届けします。(『文學界』2006年8月号より一部抜粋)

 

ノーベル文学賞 カズオ・イシグロさんが語った日本への思い、村上春樹さんのこと

 

これを読んでみると村上春樹さんとの関係や日本への思い、カズオ・イシグロさんの人となりが垣間見えてきます!

 

 

原文はこちらから
「文春オンライン」

 

ミュージシャンになりたかった

――それでは、小説作法についてお伺いしたいと思います。ポール・オースターにインタビューしたときに、彼は、同じく作家である妻のシリ・ハストヴェットの言葉を引用して、こう言っていました。

「小説を書くということは、実際に起こらなかったことを思い出すようなものだ。その意味で、小説を書く方がノンフィクションを書くよりもはるかに難しい」。このコメントに同意されますか。

イシグロ
「実際に起こらなかったことを思い出す」というのは本当に興味深いコメントだと思います。
まさにその意味で小説を書き始めたからです。

若いときは、作家になる野心はまったくありませんでした。ミュージシャンになりたかったのです。

実際に小説を書き始めたときは、自分でも驚いたほどです。

自分がどうして小説を書くようになったのかと振り返ってみると、最初に書き始めたときの主な動機がまさにそうであることに気づくのです。つまり自分にない記憶を何とかして書き留めることです。

私は日本で生まれましたが、5歳のときに日本を離れたので、イギリスで育ったのと同じです。

幼い時の日本の思い出しかありませんが、その思い出が私にとっての日本を象徴するのです。

もちろんイギリスで育っているとき、ずっと日本社会はどういうものか、とか日本はどんな国かというのを想像していたと思います。
ですから、20代の半ばにはもう、日本に対するイメージが完全に出来上がったと思います。

それは、ある程度は記憶に基づくと思っていたのですが、実際は違いました。
小説家が経験するように、架空のプロセスをすでに経ていたのです。

それで日本に対するイメージを完全に作りあげていたのです。しかし、私がそれをやったのは、小説を書こうとしたからではなく、単純に、西欧で育ちながら、感情は日本とつながって魅せられたままでいるという子供のときの状況があったからです。今まで小説を書いたときも、「私の日本」を書こうとしたのです。それは常に自分がやっていないことを思い出そうとするようなものでした。

それは記憶と想像の奇妙な混合です。小説家が実際にすることにかなり近いと思います。

彼らは架空の世界を想像します。
たとえ、リアリズムのモードで書いていてもそうです。自分の世界を創っているのです。

自分の中の宇宙を、現実的な世界に押し付けているのです。

もちろんポール・.オースターのように、現実からはっきり切り取られた世界を作り出す作家もいます。それでもかなり現実的に見えます。
本当に小説としてうまく行くのは、現実の世界に、作家自身の世界が重なっているからだと思います。だからそういう小説を我々は高く評価するのです。

想像力はそれほど羽ばたかせませんね

――イシグロさんは想像力を羽ばたかせて書くのでしょうか。

イシグロ
それほど羽ばたかせませんね。
私は、かなり抑制の利いた作家です。

私が小説を書くときは、何に想像力を使うかということについてはかなり慎重です。
常に最初にテーマを思いつき、それから登場人物の関係を考えます。

自分の想像力には、かなり明確な仕事を与えます。
「ほら、このページは空白だ。自分の想像から何かクレージーでワイルドなことが出てくるか試してみよう」とは言いません。

多くの作家がこうやってすばらしい小説を書き上げているのはわかっていますが、私の場含は一そろいのテーマが先にあって、それをかなり集中したやり方で探求します。

一つや二つのテ-マを完膚なきまで探求するのです。それで、自分の想像力を稼動させて、「これがきみの仕事だ。どうだ、何かできるかね」と想像力に聞くのです。

常に大枠があって、その中で、「これをいかにして表現するか、どのようなシーンがこのことを表すことができるか、いかにしてまとめるか」を絶えず考えます。
即興的に「次はどこに行けるか」と考えることはしません。

現代史に関する本をたくさん読むようにしています

――あなたは小説もノンフィクションも読みますか。

イシグロ
両方読みますね。ノンフィクションもたくさん読みますが、リサーチのために読むことが多い。
といっても直接自分が書いている小説のためではないことが多い。

今は、最近イギリスとアメリカで出版された『Postwar(戦後)』という、歴史家のトニー・ジュットが書いた本を読んでいます。
戦後の時代についての歴史書として非常におもしろい本です。

小説を書き始めたのはもう25年も前になりますが、その頃同時代的に体験したことがまさに第二次世界大戦の余波であったと気づいたのです。大事件がたくさん起こりました。

第一次世界大戦、第二次世界大戦、その後も小さな戦争がずっと起こっています。第二次世界大戦から半世紀以上経って、歴史的事件が数多く起きたことを再認識しています。

私の世代の多くの人もそうだと思いますが、まだ世界をみるときに、戦後の歴史の観点からみることが多い。最近になってようやく、第二次世界大戦の影としてではなく、最近起こったことを単独で理解しようとしています。

その形やパターンを実際に見ることは非常に重要だと思うからです。
もちろん第二次世界大戦はものすごく重要ですが、現在起こっていることを第二次世界大戦に関係なく、理解し始めないといけないと思います。
それで、現代史に関する本をたくさん読むようにしています。

村上さんと話すのはジャズのことですよ

――小説家の話になりますが、好きな作家は誰ですか。

イシグロ
伝統的な作家、つまり偉大な作家では、今でもロシアの作家が好きです。
チェーホフ、トルストイやドストエフスキーです。
ある意味では私が20代の頃に気に入っていた作家と同じです。
年を取るにつれて、ジェイン・オースティンのような、若いときあまり好きでなかった作家が好きになってきました。
オースティンは学生のときに読まされたのですが、とても退屈な小説でした。
3年前にオースティンのすべての6冊の小説を立て続けに読んだのですが、本当に卓越した作家であると認識しました。
ですから、ときには再読する必要があります。

現代作家の中では、好きな作家はたくさんいますが、村上春樹がもっとも興味ある作家の一人ですね。
とても興味があります。もちろん彼は日本人ですが、世界中の人が彼のことを日本人と考えることができません。国を超えた作家です。現時点で、村上春樹は現代文学の中で非常に関心を引く何かを象徴しています。人は、日本文化に必ずしも関心がなくても、村上春樹に通じるものを感じるのです。

――イシグロさんがこの前来日されたとき、村上春樹にお会いになったと聞いたのですが。

イシグロ 会いましたね。ここ(ロンドン)でも会いました。

――村上さんとはどういう話をされるのですか。

イシグロ ジャズのことですよ(笑)。
そのようなものです。作家同士が会うと、文学というような、大それたテーマについて話すことはあまりありません。

――村上さんは、自分がイギリスやアメリカで生まれていたらよかった、と言ったことがありますか。

イシグロ
ありません(笑)。そこまで親しくありません。
東京で昼食を一緒にしたことがあります。
それは2001年のことで最初に村上さんに会ったときです。
それ以来、ロンドンで二、三回会っています。ロンドン・マラソンに出るために来たときだと思います。
本の出版パーティーや晩餐会もあり、出版社の人はみんなとてもわくわくしていました。

がっかりするかもしれませんが、そういうときの作家同土の会話はささいな話題です。

大きなテーマについてはあまり話さず、サッカーや他のスポーツについて話したりします。作家たちはお互いに人間としてかかわりたいと思っています。
確かに、村上さんはジャズにとても熱中されています。私もそうです。

5歳のときから凍結した日本語

――イシグロさん自身のことについて、おききしたいと思いますが、国籍は日本と二重国籍を持っておられるのでしょうか。

イシグロ
残念ながら、日本は二重国籍を許しません。
イギリスは許しますが、もし日本のパスポートを持とうとすれば、だめですね。

少なくとも私がイギリス国民になったときは、100パーセント日本人になるか、日本のパスポートを捨てるかどちらかでした。
今でもそうだと思います。

人生のある時点で決意しなければなりませんでした。最終的には感情的には日本ですが、すべての実用的な理由から、私はイギリス国籍を選びました。
もしアフリカで困ったことになれば、日本大使館ではなく、英国大使館に行かねばなりません。日本大使館に行っても、理解してもらえませんが(笑)。

――両親から離れたのはいつですか。ある年までは両親と住んでいたのですね。

イシグロ
大学までです。それが普通みんな親から離れるときです。
もちろんそれ以降も長い間、親のところに戻って、一緒にいた時期もありましたが、基本的には大学から親と離れて、しばらくスコットランドに住んでいました。親と同居しているときも、一人で長い間旅をしたこともあります。

――ご両親と話すときは、日本語を使うのですか。

イシグロ
今でもそうです。電話で話すときも、とても下手な日本語で話しますね。5歳の子供の日本語です(笑)。

私がしゃべる日本語は、日本語であることがわからない日本語です(笑)。かなり古臭い、子供の日本語です。
5歳のときから凍結した日本語で、それに英単語がたくさん混じります。

――ご両親はまだイギリスに住んでいるのですか。

イシグロ
サーリーに住んでいます。

35歳まで日本にもどらなかった理由

――イシグロさんは35歳になった1989年まで日本にもどりませんでしたね。

イシグロ その通りです。

――どうしてですか。自分の運命を変えることはできなかったのでしょうか。

イシグロ
当時は今と比べて旅行するのが非常に難しかったと言わざるを得ません。
今ほどは簡単ではありませんでした。私が10代になるまでに、日本はとても物価の高い国になり、若造が日本まで行くのに十分なお金を貯めることは非常に難しかったのです。

また18歳、19歳になったときに、旅に出るのに十分なお金を貯めたのですが、私はアメリカに行きました、
当時の私の夢は常にカリフォルニアに行くことでした。というのもその頃サンフランシスコは若者にとって、流行の場所でした。
私の世代の若者はみんなそうでしたが、あちこちに旅しました。
アムステルダムや他のヨーロッパの場所にも行きました。ヨーロッパ中ヒッチハイクをし、さらにアメリカとカナダの西海岸を3ヶ月間もヒッチハイクしました。当時は日本に行きたいという気持ちになったことはありません。

もっと後になって、23、24歳くらいだったと思いますが、その頃になって初めて、日本にとても関心を持つようになりました。
それで、自分の小説で日本について書くプロジェクトを始めたのです。
私は日本についての小説を書き終わるまで、日本に戻らないという決意を意識的にしました。

本当の日本が、自分の脳裏にある日本に干渉をすると思ったからです。
私のプロジェクトは、自分の日本が脳裏から消える前に、小説に安定的に書き留めておくというものでした。
ですから、本当の日本に行くということは、それを混乱させることになるでしょう。
だから日本に行かなかったのです。
自分版の日本を温存したかったのです。

小説家として、日本を書き終えて初めて、日本に行きたくなりました。それで戻ったのです。それはすばらしい経験でした。でもそれは脳裏にあった日本とは異なっていました。

――失望したのですか?

イシグロ
失望したのではありません。私が日本だと思っていたものは、あくまで長崎のことだと気づきました。
それは日本の他の部分と全く違っていました。
長崎の記憶は私にとっては子供の世界であり、それに「日本」という名前を与えたのです。
5歳のときに離れて以来初めて長崎に着いたときは、ずっと想像していたものに近かった、すべての丘を思い出すことができたし、昔いた古い家にも行きました。近所も昔のままでした。近所の人もみんな子供のときの私のことを覚えていてくれました。

私もいろいろな場所を覚えていました。幼稚園への行き方も覚えていました。
幼稚園の昔の先生にも会い、近所の年寄りの人にも会いました、
そうして初めて、本当の記憶が蘇ってきたのです。
でももちろんほとんどの時間は京都か東京にいました。そこはまったく異国でしたね。

叔父は京都大学の教授、父は科学者

――もしずっと日本で育っていたら、小説家になっていたと思いますか。

イシグロ
そうは思いませんね。
家族の誰も作家になっていませんし、叔父は京都大学の教授で、国際弁護士でした。
父親は科学者で、もう一人の叙父は住友のビジネスマンです。私の家族には作家のような仕事をした人は誰もいません。

私が作家になったのは、私が日本からの「亡命者」であることに大いにかかわっています。
そして、常に、日本人である両親の目を通してイギリスという国を見たので、自分の周りの社会とも距離を置いて育ったことにも関係があります。

友人のすべてが正邪として考えていたことを、私はイギリスのネイティブの変わった風習であるとみていたのです、距離を置いて、イギリスをみていたということです。
そういうことも作家になる上でプラスに働いたと思います。

――外国に住んでいる日本人の両親は、子供にバイリンガルを維持してほしいがために、日本語の学習を強要しますが、ご両親はそういうことはなかったのですか。

イシグロ
両親は決して強要しませんでしたね。恐らく当時はそれがほとんど不可能だったからだと思います。

私の家族がイギリスに来たのは、1960年であることを考慮しなければなりません。我々以外に日本人はいなかったのです。
日本人コミュニティがなかったのです。

今日本からイギリスに来ると、日本人は日本人学校に入れるので、日本語を勉強することは可能です。
でも昔は非常に難しかったのです。母親はある程度日本語を教えてくれましたが、あるとき両親は、それはよくないと決意したのでしょう。

もし私が漢字やカタカナを覚えるための教育を受けていたら、歪んだものになっていたと思います。
それで両親は日本語を私に押し付けなかったのです。多くの点から考えると、そのことに私は感謝しています。
特に日本語の読み書きをやるとなると大変な苦労ですから。

――今日は長いインタビューに応じていただき本当にありがとうございました。

(聞き手・翻訳=大野和基/2006年5月10日、ロンドン、ヒルトンホテルにて/『文學界』2006年8月号より一部抜粋)

 

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