幸せになる方法, 楽しく過ごすには

働く人の心の専門家「森田彬裕」ストーリー

働く人の心の専門家「森田彬裕」ストーリー

定例営業会議の時には必ず上司から一言

「今月ノルマを達成できなかったヤツはどうするつもりか」

どうするつもりかって言われても・・・

一生懸命営業活動をしても売り上げが上がらない、だんだんと心が折れてくる。

働くあなたの心に寄り添いたい

コーチングを通して、働くあなたの心に寄り添います。

つらいコト、悲しいコト、納得いかないコト、思うようにいかないコト

あなただけじゃない。
生きていれば、誰しもがぶつかる心の壁。

越えられない時は、専門家に相談する選択肢があります、、、

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国宝「紅白梅図屏風」尾形光琳作を熱海MOA美術館へ観に行ってみた

熱海MOA美術館へ尾形光琳作、限定公開、国宝「紅白梅図屏風」を観に行ってみた!
ふと思い立って熱海へ。

国宝 「紅白梅図屏風」 尾形光琳作を観に行ってきました!

 

国宝 「紅白梅図屏風」 尾形光琳作


この「紅白梅図屏風」は、熱海のMOA美術館にあり、毎年1回2月梅祭りの開催中に限定公開される貴重な国宝なのです。

描かれたのは、18世紀(江戸時代)で、大きさは、各156.0cm×172.2cm(各というのは、2曲一双でできているからです)

 

MOA美術館へのアクセスは


MOA美術館へは、
東京から
東海道新幹線で熱海へ、約45分、3670円。
JR東海道線で熱海へ、約120分、1940円。
新宿から
小田急線急行利用で小田原駅乗り換え、JR東海道線でJR熱海へ、約125分、1290円。
このルートが一般的だと思います。
時間と懐具合を勘案して選んでくださいね。

JR熱海駅からは、バスまたはタクシーでMOA美術館へ。
熱海駅からは近いのですが、とにかく坂なので徒歩でははない方が良いと思います。
バスは、170円、パスモ、スイカを使えませんでした。
バスに乗車している時間は10分足らずといった感じでしょうか。

バス 8番乗り場よりMOA美術館行き 約7分 終点「MOA美術館」下車すぐ
タクシー  JR熱海駅タクシー乗り場より約5分。

私は、熱海駅からバスに乗車しましたが、とにかく坂を上がって行きます、そうすると相模湾が綺麗に見えてきました。

 

MOA美術館の特徴


到着するとそこは当然美術館に入り口なのですが、びっくりが2つ!

一つは絶景、しばし見とれてました。
この景色を見れただけだけでも来て良かったと思える景色。
もう一つは、
ここは入り口であって入り口ではないこと。
チケットを渡すと受付の女性からエスカレーターを7つ(私はそう聞こえました)上がってくださいと言われ、長いエスカレーターを数回乗車。

それで本当の美術館に入り口に到着、
ここがまた絶景絶景、そして美術館も美しい!

MOA美術館は、「海の見える美術館」と言われてますが、看板に偽りなしですね。

 

MOA美術館は、低反射高透ガラス

もう一つMOA美術館の特徴と言えば、作品・展示物との間にあるガラスを感じないこと。
2016年3月から11か月のリニューアルの結果だそうです。

ガラスに物や人が映りこまない低反射高透ガラスを使用しているそうです、作品に近づきすぎると頭をぶつけます。(私、頭ぶつけました)

さらに嬉しいことに、原則写真撮影がOK!(フラッシュ、三脚などはNG )
私のこのブログに載せている写真は、撮影OKだからこそなのです。

展示室は全部で6。
ものすごい広いわけでもないので、半日あれば休憩をしながらゆっくりと見ることができると思います。

 

「黄金の茶室」

私の目の最初に飛び込んで来た作品はこれ、まばゆいばかりの黄金の茶室でした。
輝いてましたね。
息を飲むとはこういう時に使う言葉です!

個人的には、平泉の中尊寺金色堂を思わせました。

豊臣秀吉が天正 14 年、京都御所に組立式の黄金の座敷を運び、自ら茶を点じて正親町天皇に献じたと言われてい る「黄金の茶室」。MOA 美術館の「黄金の茶室」はまさにこの史上に著名な太閤の黄金の茶室を復元したものです。 出典 MOA美術館より

 

国宝 「紅白梅図屏風」 尾形光琳作

江戸時代 18 世紀
向かって右隻に「清々光琳」、左隻に「法橋光琳」と落款があり、それぞれ「方祝」の朱文円印が捺されている。光琳晩年の作と思われ、津軽家に伝来した。

 

国宝 「色絵藤花文茶壺」野々村仁清作

江戸時代 17 世紀

 

国宝 手鑑「翰墨城 」奈良時代~室町時代

奈良から室町時代の名筆を収める古筆三大手鑑の一つ

 

メインエントランスドア  人間国宝 室瀬和美作

エントランスも凝ってます、漆塗りだそうです!

 

重要文化財 「樵夫蒔絵硯箱 」伝 本阿弥光悦

江戸時代17世紀

 

「月下紅白梅図」杉本博司作

現代

 

海景̶TAAMI」 杉本博司作

現代

 

その他の作品


 

2017年で「紅白梅図屏風」が見れるのは

2017年2月5日~3月14日
年に一度この時期だけです^^
興味のある方はすぐ行動をオススメします。

 

私森田が絵画鑑賞に行く理由

私が絵画を見に行く理由は、「感じるため」
見えるものばかり意識する毎日になっていますが、
人間は本来見えないものを感じる能力を持っています。
それは、自分を身を守る本能と言えます!

その本来の感じる能力を取り戻したいのです。
私はコーチなので、クライアントさんの目に見えないものを感じること、仕事です!

 

MOA美術館

http://www.moaart.or.jp/exhibitions/
所在地 静岡県熱海市桃山町26-2
TEL. 0557-84-2511(代表)
開館時間 9:30 – 16:30 (最終入館は16:00まで)
休館日 木曜日(祝休日の場合は開館)、展示替日、年末年始
観覧料
一般
1,600円 (1,300円)
高大生
1,000円 (700円)
小中生
無料
シニア割引
1,400円
障害者割引
800円
※ローソンチケットで購入すれば1400円で200円お得です!

尾形光琳

尾形 光琳(おがた こうりん、万治元年(1658年) – 享保元年6月2日(1716年7月20日))は、江戸時代の画家、工芸家。
来歴・人物
尾形光琳は、後代に「琳派」と呼ばれる装飾的大画面を得意とした画派を生み出した始祖であり、江戸時代中期を代表する画家のひとりである。辻惟雄が「艶隠者(やさいんじゃ)」と呼んだ貴族的・唯美主義的作家であり、宮廷風に美麗で、日本的かわいらしさの美学を強く打ち出した。主に京都の富裕な町衆(まちしゅう)を顧客とし、王朝時代の古典を学びつつ、明快で装飾的な作品を残した。その非凡な意匠感覚は「光琳模様」という言葉を生み、現代に至るまで日本の絵画、工芸、意匠などに与えた影響は大きい。画風は大和絵風を基調にしつつ、晩年には水墨画の作品もある。大画面の屏風のほか、香包、扇面、団扇などの小品も手掛け、手描きの小袖、蒔絵などの作品もある。また、実弟の尾形乾山の作った陶器に光琳が絵付けをするなど、その制作活動は多岐にわたっている。

尾形家と呉服商雁金屋
光琳は万治元年(1658年)、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男として生まれた。

光琳30歳の時、父宗謙が死去し、光琳の兄が家督を継いだ。その頃、雁金屋の経営は破綻していたが、生来遊び人であった光琳は遊興三昧の日々を送って、相続した莫大な財産を湯水のように使い果たし、弟の尾形乾山からも借金するようなありさまであった。

ふにゃっとした放埓で無責任な性格ながら、貴族的・高踏的また都会的な芸術家としてのプライドは生涯忘れずにいた。40代になって画業に身を入れ始めたのは経済的困窮と、恋人たちや妻への見栄が一因であったと考えられている。形態による音楽を明確に意識した大画面の装飾的な屏風絵を得意とし、瀟洒な水墨画まで作風は多彩だが、どの作品にも都市的な感覚と意匠があふれている。

近代の富岡鉄斎のように、絵を描ける平面であれば紙・絹・板・着物・硯箱・焼き物など何でも自身の領分であると考えいたようであり、彼独特の雅かつ明快なセンスが発揮されたものが多く残されている。フェノロサはそんな光琳を「世界最大の装飾画家」とまで呼んだ。弟乾山も、兄は何を描いてもそれが即模様になっているところが並の絵師とは違っていて、仁清と光琳が自分の師であると書き残している。

尾形家の祖先伊春は、足利義昭に仕える上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない。

伊春の子・尾形道柏(光琳の曽祖父)の代に染色業を始めたという。道柏の夫人は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道柏の子・宗柏は光悦流の書をよくする風流人であった。

呉服商雁金屋は慶長年間には高台院、淀殿、徳川家康、徳川秀忠および同夫人の江など当代一流の人物を顧客としていたが、宗柏の時代には東福門院(徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めるようになった。宗柏の末子で、雁金屋の後継ぎとなったのが光琳・乾山兄弟の父である尾形宗謙(1621年 – 1687年)だった。

この宗謙も光悦流の書をよくし、絵も描くという多趣味な人物だった。光琳は宗謙の次男として万治元年(1658年)に生まれた。
宗謙の38歳の時の子である。初名を惟富(これとみ)、通称を市之丞といった。5歳下の弟・権平が後に画家、陶芸家として知られるようになる乾山である。

当時のファッションの先端だった呉服商に生まれた光琳は当然のようにそこからデザインの影響を大きく受けており、少年時代から能楽、茶道、書道、日中の古典文学などに親しんだこともよく知られている。

絵はもともとは趣味として狩野派の流れをくむ山本素軒に師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。乾山によれば光琳は絵にこそ自分の天分があるといつも言っていたという。

雁金屋の経営は、年間5000両以上も発注し最大の得意先だった東福門院の崩御(延宝6年(1678年))を期に傾きつつあった。また、米を担保に大名に金子を融資する「大名貸し」を行って、その多くが貸し倒れになったことも雁金屋の経営悪化に拍車をかけた。

こうした中で光琳30歳の貞享4年(1687年)、宗謙が死去し雁金屋は兄・藤三郎が継いだが、光琳が画業に傾注したのはこのような家業の経営難で激減した収入を絵で補うという面が大きかった。

追い詰められるところまで追い詰められた後の最後の選択肢として絵の道を志したわけであった。

画業の開始
光琳は30歳代前半に浩臨と改名。
「光琳」の名が史料上確認できるのは35歳の元禄5年(1692年)が初見である。

44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ている(「法橋」は本来は高僧に与えられる僧位のひとつだが、後に絵師、仏師などにも与えられるようになった)。

光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間だと推定されている。

光琳の代表作のひとつ『燕子花図』(かきつばた ず)屏風は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。

この屏風には「法橋光琳」の落款があるが、「法橋」の2字は別人による書き入れとする説が有力で、この説にしたがえば、『燕子花図』は光琳の法橋位受領以前の作品となる。

光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。

また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助(1669年 – 1730年)とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。

光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。

江戸下向と帰洛
光琳は江戸詰となった中村内蔵助を頼り、宝永元年(1704年)頃、江戸へ下った。この頃の光琳は相変わらず経済的には貧窮していたようである。江戸では姫路藩主・酒井家から扶持を得、また、津軽家や豪商の三井家、住友家、冬木家(江戸深川の豪商)などともつながりがあった。現存する「冬木小袖」(東京国立博物館収蔵)は、光琳が手描きで秋草文様を描いた小袖で、冬木家に伝来したものであり、『紅白梅図』屏風(MOA美術館収蔵)は津軽家に伝来したものである。

光琳は5年ほど江戸に滞在した後、宝永6年(1709年)に京都へ戻っている。正徳元年(1711年)には京都の新町通り二条下ル(二条城の東方)に新居を構え、ここで制作した。この屋敷については建築当時の図面等の資料が残されており、静岡県熱海市のMOA美術館構内に「光琳屋敷」として復元されている。光琳の代表作のひとつである『紅白梅図』屏風は晩年の作とされ、この屋敷の2階の画室で描かれたと推定される。

死の3年前の正徳3年(1713年)には、長男の寿市郎に宛てて今日の遺言書に相当する書を書いているが、その文中に光琳は「相究タル家業モ之レ無ク」と書いている。このことから、光琳が画業を「家業」と見なしておらず、しっかりした家業がないため、息子の寿市郎を他家へ養子に出す決心をしたことがわかる。

代表作
光琳の作品には、制作年代のはっきりわかる作品は少なく、画風や、画面に捺されている印章などから制作年が推定されている。
光琳と並び称される俵屋宗達は、生没年未詳の人物で、直接的な師弟関係はない。しかし、光琳の絵には『風神雷神図』『槙楓図』のように宗達の原画に基づいて描かれたものがあることから、光琳が宗達に学ぶ意識のあったことは間違いない。ただ、光琳の作品には、宗達工房や宗雪工房など宗達亜流の作品からの影響が強いことは留意する必要がある。また、江戸下向時代は雪村の絵に感銘を受けたらしく、模写した作品が何点か残っている。
出典 ウィキペディアより

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